2015年10月18日

錦江山公園

中国丹東の錦江山公園(日本語読み:きんこうざんこうえん)の紹介。

この公園は、遼寧省丹東市北部錦江山の南斜面にある丹東最大の総合公園で、緑や花の美しいこの公園は「東北八景の最高」と称されている。園内は5箇所の観賞区に分けられている。
私がこの公園を訪れたのは、緑や花の美しい景色を眺めるのではなく、公園内には、満州時代にあった安東神社の跡が残っているとのことで、興味が湧いたからです。
(満州時代では、今の丹東は、安東と呼ばれていた)

満州地図2Rev2.jpg

この公園の歴史を調べると、

公園の歴史.jpg

旧満州時代に日本が作り上げ、日本の象徴の神社であったが、日本の敗戦を境に、日本の侵略の痕跡を除くことの対象となった。

昔の満州の地図を見ていたら、安東神社が街の中にあった。

新義州地図.jpg

調べてみると、1924年(大正14年)に東宮殿下(大正天皇)の御成婚記念として、創立以来の街中から鎮江山上に移転したとのことらしい。

宿泊したホテルの窓から、この錦江山らしき山を見ることができた。山頂の錦江亭、曙光閣らしき建物が見える。
当日の2015年5月2日は、天気は良くなかったが、レインコートを着て、ポイントだけを散策した。

ホテルから見た錦江山.jpg

まずは、錦江山公園入口のアーチ式門。安東神社の鳥居を利用改変したと言われている。
現在の門の大きさは、高さ17m、長さ34mとのこと。

大門.jpg

ネットで見つけた安東神社の鳥居の写真。

鳥居.jpg

中央の門がなんとなく、鳥居に見えてくる。

奥に進んでいくと、右側に「翠微坪(翠微坪)」と描かれた石碑がある。

翠微坪の表示.jpg

石段を上がった左右に、2本の石柱がある。石柱の上部をみると、鳥居であったことを思わせる溝がある。

石柱.jpg

ここは、後に、安東神社に合祀された鎮江山八幡宮と言われている。

ネットで見つけた鎮江山八幡宮の写真。

鎮江山八幡宮.jpg

2対の石柱の両側の玉垣と思われる部分には、一部が凹んでいる。奉納者の名前などがあったのかな。

石垣Rev1.jpg

その奥を進むと右側の隅に、放置された石が無造作に片隅にある。

脇の場所.jpg

手前に、神社などで前もって身を清めるための手水鉢(ちょうずばち)らしきものがある、左には、灯篭部分であろうか、半球を4等分したようなもの、その奥には、神社の称号である社号碑のようなものが放置されている。
ちょっと、侘しい。
さらに石段を上がっていき、上がりきった所には、「翠微坪京劇社」と書かれた碑があった。

京劇社.jpg

これも、ネットで調べてみると、以下のサイトで、錦江山公園の紹介に翠微坪の紹介があった。

翠微坪.jpg

これによると、「1905年に日本の僧侶が臨済寺を建て、日露戦争における本渓での戦死者の骨灰を移し、日本神社を建てた。これが翠微坪の前身。1998年に丹東市によって京劇の愛好家の娯楽場所になった。」との説明。

来た道を戻り、「翠微坪(翠微坪)」と描かれた入口の石碑まで戻った。
右側にベンチが置かれて、石の台がテーブルのように配置されていた。ちょっとした休憩場所である。

右のベンチ.jpg

座っている方が居ましたが、ベンチの方に回って、石の台を見てみると、一辺の方は、何やら日本人の名前が読み取れる。もう一辺の方は、字は書かれているが、読み取ることはできなかった。

ベンチの奥1.jpg

左から、「藤、山口、?木、倉富、富士崎、門田、三浦」と読める。

ベンチの奥2Rev1.jpg

これは、寄進者の名前であろうか、灯篭の基礎部分に思われる。


再び、中央の石畳の道をあがって行くと、石の階段の手前に、石橋があった。

手前の石橋.jpg

この石橋の欄干もまた、不自然。
欄干は、削ったのかセメントで埋めた跡がある。なにか文字が書かれていたのであろう。

欄干.jpg

左の欄干は、若いカップルと木の枝が邪魔なので、拡大した写真を矢印にて添付。

石の階段側から見た石橋の欄干も、やはり、セメントで埋めた跡がある。

階段側の欄干.jpg

ネットで見つけた満州時代の欄干の写真。欄干の字までは、不鮮明で分からなかった。

昔の欄干.jpg

石の階段を上りきると、そこには石のモニュメントがある広場であった。

石のモニュメント.jpg

ここは、安東神社の本殿があったといわれる所である。本殿は焼損したのであるから、その形跡を示すものは、何も無かった。
観光案内図では、「大平台」とされていた。

案内図.jpg

ここにどんな本殿があったのか知りたくて、ネットで検索してみた。不鮮明であるが、当時の雰囲気は理解できる。

本殿.jpg

少し戻って、雨が激しくなってきたが、「遼東解放烈士塔」に行った。ここは、日露戦争で亡くなった方を奉りされた納骨堂である「表忠碑」があったとされる所。今では、愛国的な塔になっている。

解放烈士塔.jpg

ここも当時の面影は無い。当時の「表忠碑」を探すと、

表忠碑.jpg

この形をみると、うまく利用した技術に驚かされる。

満州時代に戻った、つかの間の時間でした。



posted by kazuohage at 16:15| Comment(0) | 日記
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